徳川吉宗は「なに将軍」と呼ばれたか? 至極まじめな場での問いかけに子どもたちが一斉に声を揃える。「暴れん坊将軍!」
いや、米価対策に腐心したからコメ将軍とかコメ公方とかね・・。まあ、それくらい影が薄い江戸時代後期の将軍たちを、本書は
実にきっちりと、過不足なく説明してくれる。

 将軍を理解する上で留意すべきは、著者によれば二つの点。一つは将軍の性格で、「権威の将軍」なのか「国事の将軍」か。
多くの妻妾、50人もの子があった11代家斉は、江戸城に鎮座するだけで輝くばかりの権威を身にまとっていた。武士も庶民も
将軍に心服し、「権威の将軍」は世に堂々と君臨した。

 ところが時が移ると、盤石であったはずの幕府の屋台骨には軋みが生じてくる。頻発する飢饉や一揆「内憂」は幕政の有効
性に疑問符を付し、徳川家に批判的な西国雄藩、薩摩・長州・土佐などの台頭を招いた。開国を強要するヨーロッパ列強の
圧力「外患」は将軍家の威信を傷つけ、天皇の相対的な浮揚に資した。たまりかねた将軍は江戸城を出て、積極的に時世に
対応しようとする。これが14代家茂に始まる「国事の将軍」で、それは尊貴であるべき将軍にふさわしくない、と三河以来の
徳川武士には甚だ不評であった。

 もう一つは将軍の血統。中興の祖、8代吉宗の血を引くか否か。13代家定までは穏当に代替わりし、みな吉宗の子孫であっ
た。14代をめぐって家斉孫の家茂と、水戸徳川の斉昭の子、慶喜が争う。吉宗とは無縁の斉昭は12代家慶の頃から将軍家
にズケズケ注文を付ける、幕閣の一方の雄であった。その思想的バックボーンである水戸学は、世に尊王攘夷の概念を紹
介し、広めていく。だから攘夷か開国か、佐幕か尊王かという幕末の熾烈な対立は、徳川家内部の血の相剋としても捉えら
れる。

 さて14代は家茂に決まり、ライバル慶喜は最後の、15代将軍になるのだが、この慶喜、まるっきりの「国事の将軍」で、加え
て吉宗系でもなかった。それ故に幕臣の忠誠心を十分に喚起できず、彼を歴代の将軍の内に数えていいの? という本書の
疑問が成立する。戊辰戦争で幕府軍がでんで弱かったのは、武士たちが慶喜に忠誠を尽くす気になれなかった為だという説
もある。

 明治維新の成立に到る道筋を念頭に置くと、将軍と京都の天皇の相互関係に留意せざるを得ない。江戸時代の天皇の位置
づけには二通りの解釈が学界にあるようで、@将軍の権威が下降し始めると、天皇への期待が高まり、その存在が再評価さ
れる。「天皇は途中から偉くなった」説。A幕府開設の当初から天皇は将軍の優越を保証する淵源として重視された。「江戸時
代の初めから偉かった」説。さあどちら?

 著者は@に則って叙述を進める。幕府の衰微を待って初めて天皇が人々の意識にのぼり、「大政委任」という耳慣れない
概念が創造される。それは天皇の代理として全国を統治する権限を意味し、苦心惨憺、幕末の将軍たちの手中に維持され
た。だが遂に慶喜の代に至り、「大政」は「奉還」され、天皇親政の幕が上がる・・。

 中世史専攻の私が驚嘆したのは、幕末時の歴史資料の豊かさである。中世など足元に及ばぬほど質量ともに多彩で、一見
凡庸な家定(篤姫の夫)や、覇気溢れた青年将軍家茂(皇女和宮の夫)の日常を詳細に伝えてくれる。もちろん著者の確か
な技倆と優れたセンスあってのことだが、私たちは居間で寛いでジャーナルをめくるようにして、過去の権力の盛衰を現在の
政治劇を見る如くに味わえる。このダイナミズムこそは歴史を知る醍醐味だろう。

 著者の丁寧な作業が教えてくれるのは、後世から見た政治・社会の大転換も、一つ一つの偶発的な事件の積み重ねであ
るということ。源頼朝から数えて八百年に亘る武士政権の終焉、という壮大なドラマの青写真が初めからあったわけではなく、
それを見通していた者がいたのでもない。その時々に懸命に生きた人々の営為の蓄積が、結果として大きなうねりを作り出
すのだ。

文藝春秋2009年5月号